ミッドサマー感想※ネタバレあり
ミッドサマーを観た。事の発端はTwitterで時々「ミッドサマー観てきました〜」ってレポートが上がっていたことによる。
「グロかった〜」とか「あんまり分からなかったな」っていうシンプルな感想の人もいれば、鑑賞後に過呼吸になったり、具合が悪くなったりして病院に行った人もいた。また、ルーン文字が読める強いひとが、劇中に出てくるルーン文字を解読して解説していたり、「ミッドサマー」に関する様々な考察をしていたりとかなり盛り上がっている印象だった。私は、くずし字しか読めないので悔しい。
より多くのひとから、多くの考察がなされているということはすなわち、映画自体が必要以上の余計なことを描いていない(語っていない)のだろう。そういった「考えること」はわりと好きなので、評判も相まって「ミッドサマー」を観にいきたい気持ちがムクムクと湧いた。
前述の通り、予めTwitterで「ミッドサマー」に関する情報は仕入れていた。まさか自分も実際に観て、文章に起こすなどとは夢にも思わなかったのでそのときに読んだ考察やツイートは控えていない。
ミステリー小説も、結末から読んで読み進めるタイプなので「ミッドサマー」もざっくり話の内容は掴んだ状態だった。
まず、「ミッドサマー」は主人公・ダニーが家族を亡くし、孤独の身となったところから話が始まっていく。この場面はこの映画を観るにあたり、すごく大事な場面だと思った。
妹から悲観的なメールが来たため、心配になったダニーはメールを返信したり、実家にわざわざ電話をかけたりしている。しかし、返事はない。不安になる彼女は、彼氏であるクリスチャンに電話するものの、「(妹は)君の気を引きたいだけだ」とダニーをなだめる。
実際には、このとき既にダニーの両親・妹は共に実家でガス自殺を遂げており、メールの内容は事実であった。
クリスチャンは大学の友人らに、「ヒステリックな彼女とは別れろ」と散々に言われており、ダニーとの交際をズルズルと続けていた。
要は、ダニーは家族を失うかもしれない状況で、「家族が心配だ」という自身の感情に、彼氏であるクリスチャンからの共感を得られなかったのである。彼は「大丈夫かい?」と聞くだけで、それ以外何もしていない。
そんなクリスチャンないしはクリスチャンを含む大学院生組と、対極な関係にあるのが劇中に出てくるホルガ村だ。同じ大学のペレの出身村である。ホルガ村は恐らく「他人に共感すること」を大切にしているのではないか。
ペレは作中でダニーに向かって「僕には君の気持ちが分かるよ」と言った。ペレもまた幼少期に両親を亡くしており、孤独の身となった。しかし、ホルガ村の人々はペレの悲しみに寄り添い、彼に様々な手助けをしてくれたという。彼もまたホルガ村の「共感」によって救われた1人だ。ペレはホルガ村の人々を「本当の家族」と形容した。
ダニーたちが訪れたホルガ村は一見明るい小さな共同体かのように思われたが、一方で村独自の伝統的な決まりや、生命サイクルによって奇祭が行われていた。悔しいことにルーン文字が分からないので、遺跡や家の壁、食事毎の文字を読み取ることが出来なかった。
再度ここで気になったのは、作中何度もクリスチャンがダニーに向けて「大丈夫か?」「気分はどう?」みたいなことを聞いてるのだが、聞き間違えでなければ「Are you OK?」と「You are OK.」が混じっていた気がする……リスニングに自信が無いけど、「You are OK.」で「大丈夫?」って字幕だった(気がする)から、もしそうなら、ダニーは恋人に「お前は大丈夫だ」って念を押されていたような感覚になっていたのかもしれない。
生贄(?)にクリスチャンかホルガ村の男かを選ぶとき、ダニーの背中を押したのは、ダニーが欲していた「共感」をくれたホルガ村のしきたりではないか。自分の欲しいものを与えてくれるホルガ村をダニーは選んだのだと思う。
誰かと同じ行動をする。ホルガ村では寝食を見ず知らずの他人と共にする。少なくとも奇祭中はそうだった。その生活の一つ一つが孤独なダニーにとってはもう得られなかったはずの体験だった。
クリスチャンの浮気現場(ふわっと誤魔化します)を目撃したダニーは、アメリカにいた頃や、ホルガ村に着いた最初の頃のように一人で泣き喚こうとするのだが、ホルガ村の女性はそんなダニーと共に泣き叫んだ。感情を共有したかのような感覚に陥ったのだろう。
ここで、拠り所となって欲しかったクリスチャンの存在意義がなくなってしまった。だからこそ、クリスチャンは村のための生贄になった。
思い返せばホルガ村に来る前来た後とではダニーの泣くシーンに大きな違いがあるように思う。ホルガ村に来る前でダニーが泣いた場所は、ダニーの部屋・大学院(?)のトイレ・飛行機のトイレとなっており、これは全て個である。
ホルガ村に着いてからは、広い草原・共同で寝る家などで常に開けた場所だった……
鑑賞後に、もしかしたら彼らが生贄にならずに済んだ道もあるのかもしれない、村の豊穣のために殺されたのは、彼らがホルガ村の禁忌を侵したからだと思ったが、最後、ペレが讃えられているのを観てペレに騙されていたのだと気がつく。
観ているときに「あれ、呼吸がうまく出来ないな」って思ったことがしばしばあったんだけど、たぶんダニーをはじめとするホルガ村に招待された人々の「呼吸」が効果的に使われているからではないかと思った。「不安」とか「恐怖」とかそういった感情が呼吸によく現れていて、それに引っ張られて自分の呼吸もリズムが狂ったのではないか……単に呼吸が下手なのかもしれないが……。
我慢is何
地球上の皆さ~ん!今週も素敵なウィークを過ごせたかでしょうか〜!?!
最近、周回遅れのkemioにハマってて怖い。あんだけ、特集されていた時期もあるのによりによって今ハマるなんて、夢にも思わなんだ。
最近、と言えばずっとお腹が痛い。たくさんのことが積み重なってストレスで胃が荒れているのだと思うけれど、「お腹が痛い」は地味なので身体に謎の模様が浮き出るとか、人面瘡ができ勝手にベラベラ喋るとかそういう未知の症状が起きて欲しい。
いろんなことを我慢して我慢して生きているはずなのに、昨日「我慢して頑張らないと」という応援文句を貰った。悪意がゼロなのが余計に辛い。私はどこまで我慢すれば救われますか?
第一、人が人を嫌いになることを甘く見ていませんか?急に嫌いになるのなんかレアケースで、だいたいは積もりに積もった「苦手だな」が爆発して「嫌い」に変化するものだ。その時点で、たくさんの「我慢」をしているはずなのに、これ以上我慢して状況は変わりますか?
我慢して我慢して踏ん張って誰も知らないところで泣いて、誰にもなにも悟られないように笑顔貼り付けてここまで満身創痍で来た結果がこれですか?胃が荒れただけじゃないですか?
我慢ってなに?
頑張るってなに?
みんな頑張ってるのだって、みんな何かしら抱えて生きているのなんて知ってるけど、比べたってしょうがないでしょ。私が持ってる痛みも悲しみも怒りも全部、私だけのもので、私しか知らないのに誰かが推し量ることなんて出来ないでしょ。
誰かの生き方や誰かの偉さを押し付けないでください。
いやなこと
いやなことばっかりだ。
いやなことのほうが記憶に残りやすいらしい。
確かに。
どこかに連れて行ってもらった記憶も、なにかを買ってもらった記憶も、私が覚えている以上にたくさんあるはずなのに、罵倒された記憶と力を持ってねじ伏せられた記憶とかが完全に上回っている。
ネットはたくさんの人を繋げるツールでもあるから、自分と似たような境遇の人を探すことに没頭した時期もあった。けれど、そういった人たちに付随してくる経験はそれぞれで自分と全く一緒だ!という人はいなくて、「自分はまだ辛くないのにツライツライって喚いているんじゃないか?」となぜか自分に厳しくなってしまう。
「人間が生きていくにはお金がかかりすぎる。死んだほうがコストパフォーマンスが良い」
っていうのが自分の思想だ。
クーラーや部屋の電気を付けていたら、勝手に消されたり、怒られたときになぜか「生活費を払え」とまったく関係の無いことを言われたりした経験が影響を与えているのかもしれない。
こういうことを、かれこれ何年も続けているあいだに自分が生きていい価値のある人間だと思えなくなってしまった。
家にいるときは、怖くて自分の部屋以外に長居が出来ない。例えばテレビを観ようとリビングにあるソファーに腰をかけても、どのような姿勢でどんな顔をして、テレビを観たら良いのか分からない。
逃げるように自分の部屋に戻ってしまう。
これも嫌なポイントであるらしく、「部屋に籠ってばかりで」と言われたことがある。
ならば、と家族が揃っている夜はどこかに出掛けてることが多い。
なんでこんな生活をしているんだろう。
よくわからなくて悲しい。
なんで家族に気をつかっているのだろう。
なんで上手く生きていけないんだろう。
なんで死ぬのは怖いんだろう。
身も蓋もないはなし
苦手な人がいる。生きていて自我がある以上、当たり前である。
しかし、「この人が苦手だ」と思いつつ、「でも、それは、この人が私に無いものを持っているからじゃないのか?要するに僻みなのでは?」と思うことがある。
短所も長所になり得る。長所も短所になり得る、というのはよく聞く話で、私は私の苦手な人の苦手なところを短所として受け止めてしまっているから、その人が苦手なのではないか?と思っているのである。
こうなると、自分の寛容さの問題かのように思え、真夜中の鬱街道まっしぐらになり、やがて病む。あまり良くない。
先日、自分の中で許せない出来事があり、珍しく______いや珍しく無いかもしれない、怒り狂っていたのだが、事の顛末を彼氏に、さながら機関銃のようにまくし立てたところ、
「うーん、気にしなければいいんじゃない?別に、なにかフジワラに直接的な被害が及ぶわけではないんでしょ?」
と、言われた。
確かにそうなのだが…
確かにそうなのだ…が…
確か………に……そうなの、だが……ッ
(※実際に口に出しました)
こう、出会い頭に殴られるとか、階段から突き落とされるとか、そんなことは絶対にされないのだが、それでも、許せないことは許せないし、気になるものは気になってしまう。
多分、今までの人生を振り返ると、妙に正義感があって困ったことが、多々あった。
小四のときの担任の北川先生も、通信簿に「フジワラさんは正義感があります」と、確かに書いていた。
物事が円滑に進むなら、汚れ役を引き受けたっていい、というきらいが私にはある。
これは厄介なことなのだろうか?
気にしない術を身につけたいと思っている。
いい案があれば是非。
愛で人を殺せるか?(映画『ジョーカー』感想)※ネタバレあり
久しぶりに映画を観に行った。前回映画を見たのは、映画ドラえもん『のび太と月面探査記』。ドラえもんが好きなのと、脚本が小説家の辻村深月さんだったので、公開初日に観に行った。
鑑賞直後に書いて、興奮が文字を打ったようなしょうもないブログもあるので、暇な方は是非読んでみてください。
さて、私がジョーカーというキャラクターに出会ったのは、『バッドマン ダークナイト』でヒース・レジャーが怪演したジョーカーと、『スーサイド・スクワッド』でジャレッド・レトが演じたジョーカーである。
※生粋の映画好きというわけでもなく、今までのシーザー・ロメロ版、ジャック・ニコルソン版のジョーカーは画像でしか拝見していない。(ジャック・ニコルソン版のジョーカーはお目にかかりたい)
故に、ジョーカーは狂気的で、しかしながら魅力のあるキャラクターといった程度の認識しかない。さらに、私はFate/GrandOrderというゲームではメフィストフェレス、『東京喰種:re』では旧多二福、『FAIRYTAIL』ではラスティローズといった狂気的なキャラクターが好きなので、ジョーカーにハマらないわけはなかった。
しかし、今までのジョーカーが、既にバッドマンシリーズの悪役として登場し、悪事を働いている。彼本来の仕事を劇中で行っている、という意味で今までを「陽」とするならば、今回のホアキン・フェニックス版『ジョーカー』は、彼がジョーカーになるそれまでの話、つまり「陰」の時代の話である。
まず、彼がジョーカーになった要素の大前提として、「世間に受け入れて欲しかった」ということが挙げられると思う。
笑ってしまう病気を持っているアーサー(ホアキン・フェニックス演じる主人公)は、その病気のせいで幾度となく苦い思いをしてきた。
劇中でも、誰かに邪険にされている場面や、怒られている場面、そして大勢の観客の前に出てネタを披露する場面で笑ってしまっている。実際に、劇中では「何がおかしいんだ?」と尋ねられたり、不気味がられている。
アーサーが「病気だ」と言っても、「看板は盗まれた挙句に暴行もされた」と言っても、彼らは軽蔑の目を止めなかった。
「不気味なやつ」に対する視線がこの映画では常時、アーサーに向けられている。
やがて、仕事や普段の生活が上手くいかず、再起をかけたコメディアンの夢も低迷してしまう。この、なにも上手くいかなくて、世間にも迎合されない男が映画上演開始から暗いタッチで描かれている。
そして、次に「信じていたものたちの裏切り」である。
コメディアンの夢を抱いていた彼は、超有名司会者マレー・フランクリンに憧れていたが、彼は笑い者にして貶めるためにテレビにアーサーを呼んだ。
母親のペニー・フレックは優しい言葉を投げかけておきながら、過去に恋人がアーサーに暴力を振っていたのを看過していた。
すべて、孤独なアーサーの心の支えとなっていた者の裏切りである。
世間に迎合されず孤独で、信じていたものに裏切られたアーサーは、世間を信じる者たちを愛していたからこそ、彼らを殺す悪役として生まれ変わった。
犯罪と貧困が渦巻く都市・ゴッサムで生きていくには、また、強い者が弱い者を虐げるこの世界でアーサーは狂気と強さを選ぶことにしたのだと思った。
劇中で、幾度となくアーサーは笑った。
それらはすべて、自分や社会への悲観や諦観を含んだ笑いだったのではないかと思う。
アーサーが強さを選び、今までの自分を捨てて覚醒するその過程がリアルに描かれ、これはアーサーだけではなく、私たち誰にでも起こり得る話だと思った。
誰かに蹂躙されないためには、強くならなければならない。自分が輝くためには誰かを傷つけなくてはならない。
正しさはそこには全く関係なくて、これはアーサーが生きていくためには、必要なことで誰にも咎めることは出来ない。
寝る子は育つ
睡眠。私たちの生活の上で最も重要なことの一つと言っても過言ではない行為である。
睡眠。「す」「い」「み」「ん」、平仮名の並びがとってもキュート。特に後半。「みん」可愛すぎる。「みんなのGOLF」も略して「みんGOL」って言うしね。
私は睡眠が大好きだ。
時効だと思って打ち明けるが、私は幼少期から小学生高学年にかけて、土曜日はいつも昼前までしっかりと睡眠を取っていた。
表題「寝る子は育つ」。あれは嘘だ(身長156cm)。身長だけでなく、胸も育たなかった。
頷いた人、あとで体育教官室に来なさい。
しっかりと睡眠を取ること、絶対に健康に良いはずなのに、一つ、弊害がある。
そう。「寝過ぎで頭が痛い」だ。
土曜日は高確率で頭痛ガチャ「★5 寝過ぎで頭が痛い」を引いていたため、両親に「なんか、(寝過ぎで)頭が痛い〜〜😭」などと言っていた。
先方は、情報不足なので「この子はいつも頭が痛いと言うわね……偏頭痛かしら……(悩ましげに窓の外ののどかな農村を見るポーズ)」と良い、我が家に代々伝わる万能薬・EVEを私に献上していた。
万能薬は頭痛、腰痛、発熱、生理痛にも効くものである(マツモトキヨシに行けばあります)。
そんなこんなで睡眠が好きなのだが、それはあくまで寝てからの話である。
私は寝付くのにかなり時間がかかる。
目をクローズドして、完全に意識が無くなるまでに、体がムズムズし、「寝るのに最適なポーズ」を見つけるまでずっと寝返りを打っている。
高2の頃の修学旅行先で、2日目の朝に同じ部屋だった子に「めちゃくちゃ動いていたよ」と声をかけられたことがある。恥である。
しかも、横になると腸の動きが、突然活発になるタイプなので、お腹の音&寝返りによるシーツ擦れの音が不協和音になる就寝公害を引き起こしてしまう。いつ、訴えられるかとビクビクしながら寝返りを打っている。
去年は、私があまりにも秘技・ローリングサンダー(寝返り)を繰り返したため、我が家お墨付きの無印良品ベッドシーツが無惨にもビリビリに裂けてしまった。
ボロボロになった無印良品ベッドシーツに泣きながら別れを告げたあと、新しい無印良品ベッドシーツを手に入れ、すぐにベッドメイクにうつった。
最近だと、見ず知らずのうちに出来た痣に戦々恐々としていた。「打った覚えもないのに、こんなに身体に痣が出来るなんて……私は良いけど、彼氏がDV男だって噂されて捕まったら大変だわ……!」とか「何かしらの病気のサインかもしれないわ……!」とか思っていた。
※彼氏に「アッ!今のはDVだ!」って言うと「小文字な」と訳の分からないボケをかましてきます。
結論から言おう。寝返りを打っているときに、壁にどんどん足を打ち付けていた。DVでも病気でもなかった。情けない。
しかも、この前は自分で打って出た音にびっくりして起きた。泣きたくなった。
もっと優雅に寝たい。
安眠できる枕とか、安眠出来るベッドとかあったら教えてください。
おやすみ。
I was born to love you.
エビフライを我慢しただけで褒められた。「偉すぎて涙が出る」と言われた。このままずっと5歳児でいよう。永遠に褒められる。
母が「しゃかりき光は面白いねぇ」と言った。熊本弁を話すお母さんというキャラクターを演じているお笑い芸人らしい。母は動画を観て、ひとしきり笑ったあと「お母さんは熊本弁なのに息子が関西弁なのが許せない」と言っていた。
友人が「今日は1人だから、お酒を飲みながらご飯を作ることが出来る!」といい「何を作るの?」と聞いたら「味噌汁!」と言っていた。ちょっと前衛的すぎる。味噌汁と卵焼きしか作れないらしい。
バイト先の友達に「I was born to love you」を訳させた。私たちが生まれるのは受け身だし、不定詞の副詞的用法だよって言った。あとはQUEENの歌。
バイト先の近くの自動販売機に、ラムペットが入っていた。ネーミングセンスを疑う。ラムネ飲料水がペットボトルに入っているからラムペット。責任者を呼べ。
こんな文を書いていたら、短歌を1首作ってしまった。創作するものの悲しい性だ。悲しいときこそがチャンス。
悲しみも涙も飛ばせアルコール3度で酔える君が好きだよ
君のことだよ。