愛で人を殺せるか?(映画『ジョーカー』感想)※ネタバレあり

 久しぶりに映画を観に行った。前回映画を見たのは、映画ドラえもんのび太と月面探査記』。ドラえもんが好きなのと、脚本が小説家の辻村深月さんだったので、公開初日に観に行った。

鑑賞直後に書いて、興奮が文字を打ったようなしょうもないブログもあるので、暇な方は是非読んでみてください。

 

さて、私がジョーカーというキャラクターに出会ったのは、『バッドマン ダークナイト』でヒース・レジャーが怪演したジョーカーと、『スーサイド・スクワッド』でジャレッド・レトが演じたジョーカーである。

※生粋の映画好きというわけでもなく、今までのシーザー・ロメロ版、ジャック・ニコルソン版のジョーカーは画像でしか拝見していない。(ジャック・ニコルソン版のジョーカーはお目にかかりたい)

 

故に、ジョーカーは狂気的で、しかしながら魅力のあるキャラクターといった程度の認識しかない。さらに、私はFate/GrandOrderというゲームではメフィストフェレス、『東京喰種:re』では旧多二福、『FAIRYTAIL』ではラスティローズといった狂気的なキャラクターが好きなので、ジョーカーにハマらないわけはなかった。

 

しかし、今までのジョーカーが、既にバッドマンシリーズの悪役として登場し、悪事を働いている。彼本来の仕事を劇中で行っている、という意味で今までを「陽」とするならば、今回のホアキン・フェニックス版『ジョーカー』は、彼がジョーカーになるそれまでの話、つまり「陰」の時代の話である。

 

まず、彼がジョーカーになった要素の大前提として、「世間に受け入れて欲しかった」ということが挙げられると思う。

笑ってしまう病気を持っているアーサー(ホアキン・フェニックス演じる主人公)は、その病気のせいで幾度となく苦い思いをしてきた。

劇中でも、誰かに邪険にされている場面や、怒られている場面、そして大勢の観客の前に出てネタを披露する場面で笑ってしまっている。実際に、劇中では「何がおかしいんだ?」と尋ねられたり、不気味がられている。

アーサーが「病気だ」と言っても、「看板は盗まれた挙句に暴行もされた」と言っても、彼らは軽蔑の目を止めなかった。

「不気味なやつ」に対する視線がこの映画では常時、アーサーに向けられている。

 

やがて、仕事や普段の生活が上手くいかず、再起をかけたコメディアンの夢も低迷してしまう。この、なにも上手くいかなくて、世間にも迎合されない男が映画上演開始から暗いタッチで描かれている。

 

そして、次に「信じていたものたちの裏切り」である。

コメディアンの夢を抱いていた彼は、超有名司会者マレー・フランクリンに憧れていたが、彼は笑い者にして貶めるためにテレビにアーサーを呼んだ。

母親のペニー・フレックは優しい言葉を投げかけておきながら、過去に恋人がアーサーに暴力を振っていたのを看過していた。

すべて、孤独なアーサーの心の支えとなっていた者の裏切りである。

 

世間に迎合されず孤独で、信じていたものに裏切られたアーサーは、世間を信じる者たちを愛していたからこそ、彼らを殺す悪役として生まれ変わった。

犯罪と貧困が渦巻く都市・ゴッサムで生きていくには、また、強い者が弱い者を虐げるこの世界でアーサーは狂気と強さを選ぶことにしたのだと思った。

 

劇中で、幾度となくアーサーは笑った。

それらはすべて、自分や社会への悲観や諦観を含んだ笑いだったのではないかと思う。

 

アーサーが強さを選び、今までの自分を捨てて覚醒するその過程がリアルに描かれ、これはアーサーだけではなく、私たち誰にでも起こり得る話だと思った。

 

誰かに蹂躙されないためには、強くならなければならない。自分が輝くためには誰かを傷つけなくてはならない。

正しさはそこには全く関係なくて、これはアーサーが生きていくためには、必要なことで誰にも咎めることは出来ない。