身も蓋もないはなし

苦手な人がいる。生きていて自我がある以上、当たり前である。

しかし、「この人が苦手だ」と思いつつ、「でも、それは、この人が私に無いものを持っているからじゃないのか?要するに僻みなのでは?」と思うことがある。

 

短所も長所になり得る。長所も短所になり得る、というのはよく聞く話で、私は私の苦手な人の苦手なところを短所として受け止めてしまっているから、その人が苦手なのではないか?と思っているのである。

 

こうなると、自分の寛容さの問題かのように思え、真夜中の鬱街道まっしぐらになり、やがて病む。あまり良くない。

 

先日、自分の中で許せない出来事があり、珍しく______いや珍しく無いかもしれない、怒り狂っていたのだが、事の顛末を彼氏に、さながら機関銃のようにまくし立てたところ、

「うーん、気にしなければいいんじゃない?別に、なにかフジワラに直接的な被害が及ぶわけではないんでしょ?」

と、言われた。

確かにそうなのだが…

確かにそうなのだ…が…

確か………に……そうなの、だが……ッ

(※実際に口に出しました)

 

こう、出会い頭に殴られるとか、階段から突き落とされるとか、そんなことは絶対にされないのだが、それでも、許せないことは許せないし、気になるものは気になってしまう。

 

多分、今までの人生を振り返ると、妙に正義感があって困ったことが、多々あった。

小四のときの担任の北川先生も、通信簿に「フジワラさんは正義感があります」と、確かに書いていた。

物事が円滑に進むなら、汚れ役を引き受けたっていい、というきらいが私にはある。

これは厄介なことなのだろうか?

 

気にしない術を身につけたいと思っている。

いい案があれば是非。